Drawing Artwork Studioをやる理由

2月から不定期だけど定期的な絵のクラスを、
細々とですがスタートしました。

クラスとはいえ、絵の技術やHow Toを教えることは皆無。
結果として絵を描くという動作をするのだけれど、
実はそこに重きを置いていない。

過程と言ったら端的だけれども、絵の完成や出来栄え、発表よりも、
テーマに対して自身が対峙した時、どういう賜物が形として出てくるのか。
もちろんその途中も、すべて賜物で。
その事に一番の重きを置いていて、絵描きとしての私、絵を描かない私。
両方の私の落とし所とも言える、そんなクラスだと思うのです。

絵を描く私は、絵を描くことは一人きりのものだとずっと思っていて。
でも、そうじゃない絵を描く。みんなで。ということもだんだん知ってきて。
もちろん一人きりの部分はずっとあるのだけれども。
両方だから絵はいいなぁなんてしみじみ思ったりもして。

絵を描かない私は、その頃
自分の心の奥底は、本当はどこにあるんだって探す毎日を
過ごしていて探していくうちに、
頭で考えることや、自分で心の奥底からなんだ、
って思っていることや、感覚なんていうものは
案外あてになんないぞなんていうことも知ってきて。
もちろん心は大事なのだけれども。
それよりも、なんだかわからないけれど、
駆り立てられるように身体が動いていくってことや
身体の反応の方が、真実なのかもなんて、
今も通り過ぎていってしまうこの瞬間の時間たちを
ただただ、どういう風に過ごしていくかを精一杯、目一杯。
という風になっていったのでした。

絵を描かない私は、ヘラヘラニヤニヤしながらも
実は反骨心にあふれたあまのじゃく。
絵を描く私が描く絵は、正直でいることしかできないし、
何かをごまかせたり計算高くも入れない、ただただ素直。
だから絵はやっぱりすごいなぁなんて思っていて。
絵は、心と体の両方の産物だと思うのです。

明日の予定も、お風呂に入ることも忘れてしまったり、
洋服が汚れてしまうことすら、眠気も忘れてしまった。
つまり無我夢中。
こういう時間の過ごし方が、ある程度の年齢を重ねた人達にも
今のこの時だから必要と思う時がしばしあったこと、
日常では、後の後まで先回りして考えられる人が
重宝されるのだけれども。ね。

こういったことをぼんやり思っているうちに、
ボランティアについていくことになった
ホンジュラスの子供達のアートワークのクラスを受け持つ時に、
この子たちに、何を残していくことができるだろうかを考えました。

後々になって、この子達が困難になった時、
自分自身とのおしゃべりによって解決していくんだなぁ。
つまり、私が私を知る事。

心の奥底を探っていく事と体の反応の賜物。
絵を描く事はその方法にもってこいなのでした。




















※クラスでは、あなたの心の相棒を教えてください
ってテーマで描いてもらいました。素敵な絵ばっかり!)


今は私たちの暮らしを豊かにすべく、
たくさんのプロジェクトや試みが星の数ほどあって、
豊かという外堀を固めるようなもののように見えてしまっていて

そんなことがなくっても、自分に何が在るのか知っている。
ホンジュラスの子達は、とっても豊か。なのでした。

もしかしたら、発信なのではなくって受け取る側の
準備だけのような気もしていて。

個人ベースでいいから、描きたいときに
日常の延長で
描ける間口になっていれるクラスでいたいのです。

私のここでの役割は、
絵は厳しいものではなくて、どんな人がどんな風にしてもいいんだよって
少しだけ道ならしの背中を見せること。
絵を色々な方法で一緒に愉しむ姿をお見せすること。それだけです。

1人の圧倒的な時間もいいけど、
お互いの過ごす時間のお裾分けもいいよねって。
長々となってしまいましたが、だから私は、
毎回1人でも描きたい人がいればDASをやろうと思うのでした。


△△△yoshimi△△△

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